『東西両都で日本を改造しよう!』
天皇陛下の皇居を関西に移し、文化の首都をつくり、東京と二つの首都で新しい国のかたちを創造する。これこそが、東京一極集中を打破し、地方創生に繋げる日本再生の途だ。
一極集中で自滅する日本
明治維新以来、大恐慌や戦争を乗り越え自由主義経済と民主政治を推進し、近代国家を創り上げてきた日本。政・官・業が強固に連携して中央集権体制を築き、国力を増強し、国民の経済と福祉を向上させてきた。これは、近現代史の奇跡として世界から驚嘆の的であった。
しかしながら、戦後の高度経済成長の後、バブル崩壊、平成のデフレ不況、リーマンショック、東日本大震災、そして今回のコロナ禍という相次ぐ国難に上手く対応できずに、停滞を続けている。
この低迷の原因はいくつも考えられよう。しかし、大きな要因は、この国の統治機構そのものに問題があると言わざるを得ない。つまり、過度の中央集権体制による東京(首都圏)一極集中の国家構造が、この国の健全な発展を阻害し、国民の豊かな生活を破壊しているのだ。
政治、行政、経済、教育、文化、情報(メディア)などの中枢機能が全て東京に一極集中しているために、人口も企業・団体も東京に吸引され、地方は衰退の一途をたどる。そして過疎過密問題は極大化し、国民生活は疲弊し、国民経済は非効率化し、格差が拡大する。企業活動も高コスト化して競争力を失っていく。
東京・首都圏は、人口増による通勤地獄、交通渋滞、地価や物価の高騰、都市災害の危機に悩まされ、逆に地方は限界集落、雇用喪失、農村崩壊、森林荒廃の危機にある。
このように、東京一極集中は、現代社会の要請である分権化、多様化、持続可能性に逆行し、社会の健全な発展を妨害する諸悪の根源と言っても過言ではない。それどころか、東京が首都直下型の大地震や北朝鮮からミサイル攻撃を受ければ、国家機能が麻痺してしまうという安全保障上の危機管理の面からも問題を抱えている。
この惨状を予期してか、これまで政府も対策を講じてきた。均衡ある国土の発展を目指して、数次にわたる全国総合開発計画を実行したり、首都機能移転も検討した。また、地方分権が重要だとして三位一体改革を実行したり、道州制も検討した。しかしながら、こうした政策のどれもが、抵抗勢力の反対もあり、全くと言っていいほど成果を上げることが出来ず、東京一極集中は是正されないまま今日に至っている。
日本の歴史と両都構想
この岩盤のように固まってしまった中央集権体制=東京一極集中構造を打開できる方策はないのだろうか。
それこそが「この国のかたちをつくり直す東西両都構想」である。
天皇陛下と皇居をそのルーツである関西に奠都(てんと)する。奠都とは、都を移す遷都ではなく、都を新たに定めることをいう。日本文化の中心にある天皇を頂く文化の首都を関西に置き、政治の首都である東京と二つの首都をもって、この国の発展を東西でバランス良く牽引する。東京の中央集権体制を、道州制のように一挙に地方へ分権しようとしても、霞が関の中央政府や都道府県・市町村などの既得権者の抵抗もあり無理がある。まずは、何でも東京中心の仕組みを、政治機能と文化機能の分権化を図ることによって、それを契機として他の機能の分権・分散に繋げていくのである。
そもそも、我が日本国は、二千六百年に及ぶ悠久の歴史の中で、天皇と朝廷はそのほとんどの時代において関西に存在していた。初代の神武天皇から五十代の桓武天皇までは、御所すなわち皇居は関西各地を移動しながら基本的には奈良にあった。西暦七一〇年には平城京が開かれている。その後、西暦七九四年に平安京に遷都され御所すなわち皇居は京都に移った。以来、京都に帝(みかど)が存在するという意味において、京都が都(みやこ)=首都として我が国の中心となって時代を築いてきたのである。
この体制の中で、政治権力が京都の外に出たこともある。源頼朝が開いた鎌倉幕府と徳川家康に始まる江戸幕府の時代である。つまり、文化の首都と政治の首都の二都体制は、日本史上初めてのことではなく、日本がかつて経験したことのある国のかたちでもある。
また、平安京遷都以後、天皇が京都の外に出たのは、南北朝時代の後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた時と、明治維新によって天皇を中心とした政治体制をつくるために東京に移ってからの約百六十年のみである。つまり、日本国の歴史において、天皇はその起源の地である関西にあるのが常態であり、東京に皇居があることこそが、日本史の流れの中で例外的なのである。
明治憲法では「天皇は統治権を総覧する元首」であり、政治権力と一体化していたので同じ首都に存在する必要があった。しかし大戦後の日本国憲法では、「天皇は国の象徴」であり、政治権力と同じ場所にある必要はないのである。鎌倉時代や江戸時代にあった天皇と政治権力の分権による両都体制の方が、国のかたちとして相応しいともいえる。
明治維新と東京奠都
実は明治維新を迎えて、どこを首都にするかで大きな論争があった。
初代将軍徳川家康以来、十五代二六〇年続いた江戸幕府は、ペリー来航による混乱の中で、欧米列強による圧力で開国する。江戸幕府と薩摩藩、長州藩など倒幕派による戊辰戦争で徳川幕府は滅び、江戸城が無血開城されたのはご承知の通りである。
この江戸城の無血開城によって、江戸すなわち東京が明治維新政府の首都になったと思っている人が多いが、そう簡単には事は運ばなかった。江戸城開城の時点では、新時代の首都をどこに置くか決定していなかったのである。
明治新政府は明治天皇を中心(主体)とする政治体制を想定していたので、京都の人々は当然御所がある京都に政治権力が戻ってくると考えていた。
一方、新政府の中心人物である大久保利通は、商業都市として繁栄し京都にも近い「大阪遷都」を提案している。また他方では、京都と江戸の両方を首都とすべしという「東西両都論」も検討された。
そうした中で、新たな提案が起こる。新政府に招かれ、後に日本の郵便制度を創り上げた前島密が「江戸遷都」を主張し、大久保に建言したのである。
つまり、江戸に首都を置いたほうが、地政学的に有利であり蝦夷(北海道)の開発もしやすい。大阪市街より江戸の方が広く、都市開発しやすい。さらに、財政難に直面していた新政府にとって、大名や幕府が使っていた建物を利用でき、それまでの政治権力の象徴であった江戸城を、新しい時代の最高権力者でもある天皇の住まいとすることもできるという提案であった。
深刻な財政難の中にあった新政府は、新たな施設建設をする余裕もなく、この前島密の提案を受け入れることになった。こうして、江戸無血開城から数カ月後に、江戸は「東京」に、江戸城は「東京城」に改称されたのである。
さて、明治天皇が江戸城(東京城)に入城したのは、東京と改称されてから二ヶ月後の明治元年(一八六八)十月だ。ただし、その時点で江戸城が皇居になると発表されたわけではない。東京を首都に据えることは既定路線だったのだが、天皇の住まいを京都から東京に移すことを発表すれば、京都市民の反発は必至であった。そのため、新政府は天皇が地方へ外出する「行幸」という名目で、天皇を江戸城へ迎え入れた。
最初の行幸の際は、天皇はわずか二ヶ月しか江戸城に滞在しておらず、翌明治二年(一八六九)三月に二度目の東京行幸を実行し、江戸城が天皇の住まい(皇居)兼政務の場になることが表明された。このとき「東京城」は「皇城」へと名称を変えている。こうして、江戸城が皇居となり現在に至っている。
ちなみに、都を移すことを遷都というが、明治政府は結局一度も「東京が首都である(京都はもう都ではない)」とは発表していないため、「東京奠都(都を定めるという意味)」と呼ばれることもある。京都の人々の中には、今でも「明治維新のときに、天皇を東京にお貸ししただけで、いつ返していただけるのか」とかなり真顔で言う人もいる。ただし結果的には、天皇の江戸城入城をもって、東京に遷都したというのが実態であろう。
これが、天皇皇后両陛下のお住まいである皇居が、京都から東京に移転した経緯である。
文化の首都再興、関西奠都で日本再生
ここで「首都」の定義とはどんなものであるか考えてみたい。
そもそも我が国には首都を定めた法律がないし、国際的にも明確に定義されていない。
一般的に首都とは、その国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首などの国の最高指導者が拠点とする都市である。しかしながら、この二つの条件が同じ都市に存在しなければならないわけではない。前述の通り、日本でも歴史上、国家元首(天皇)と政治権力(幕府)が分権され、異なる都市に置かれていた時代、すなわち鎌倉時代、江戸時代の経験がある。
さらに日本の歴史の中で、天皇という国家元首的な権威の象徴が、大阪、奈良、京都という関西にそのルーツをもっている。特に京都は八世紀の平安京以来千年以上に渡り天皇が居住し、京という都が日本の歴史の中心にあったのは紛れもない事実である。
こうした歴史を考えると、国家の象徴であり、日本の歴史・伝統・文化の中心にある天皇は、そのルーツである関西にあるのが自然な姿であろう。その場合、皇居の所在は京都に決めつけるのではなく、大阪・奈良・京都の近辺に適地を見つけ、新たな皇居を建設してはどうだろう。日本の伝統建築技術や近代技術の粋を集め、国民や企業・団体からの寄付によって新しい時代の皇居と関連施設を建造し、関西を文化の首都に位置づけ発展を目指すのである。
この構想に対しては、皇居が関西にあると国会の召集や大臣の任免など憲法に定められた国事行為に支障をきたすという反論もある。しかし、リニア中央新幹線が開通すれば関東と関西の移動時間はさらに短縮されるし、現在の皇居施設も継続して使用すれば対応は十分に可能であろう。
日本は明治維新以来、強力な中央集権体制の下で、近代国家を建設してきた。この体制の中で政治・行政のみならず、経済・情報(メディア)・教育・文化などすべての分野で東京一極集中が過度に進行し、東京首都圏の超過密、地方の超過疎という極めていびつな国家構造を生み出し、国力を減退させ国民を疲弊させている。
「なんでも東京」という国家構造をどこかでぶち壊さなければならない。その第一弾として、日本文化の象徴であり中心である天皇と皇居を、そのルーツである関西に移し、奠都によって両都構想を実現する。「政治の首都=東京」と「文化の首都=関西」、という二つの車輪で日本を牽引し発展させる。具体的には、二つの首都を明確に定義し規定する「首都制定法」(仮称)をつくるべきであろう。
こうして関西が文化の首都と位置づけられれば、それに伴って新たな求心力が生まれ、経済や社会にも新たな分散化・分権化の動きが始まり地方創生に繋がる可能性が期待できる。
集権化、画一化による殖産興業を目指す国のかたちから、分権化、多様化、地方創生を目指す新しい時代の国のかたちに転換していく。その第一歩が、天皇と皇居の関西奠都、「政治の首都=東京」と「文化の首都=関西」による両都構想なのである。令和維新に向けて国民的な議論が起こり、実現に向けての検討が始まることを願ってやまない。