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【横浜を拓いた男たち】シリーズ第3回 初めて和英辞典を編纂したヘボン博士

初めて和英辞典を編纂したヘボン博士

松沢成文

 

安政6(1859)年6月2日、横浜港が開港。その直後の9月22日、一組の夫婦がこの新しい港に上陸を果たした。4月24日にニューヨークを発って大西洋を南下し、アフリカの喜望峰を巡り、インド洋を横断するという長旅を経て、まだ見ぬ日本をめざしたのは44才のジェームス・カーティスと41才のクララのヘッバーン夫妻。

 

ジェームス・カーティス・ヘッバーンは、1815年にアメリカ・ペンシルバニア州で生まれた。地元の小中学校で学んだ後、16才でペンシルバニア大学の3年に編入、学力が非常に高かったことから飛び級を重ね、ペンシルバニア大学医学部に入学。21才の若さで開業医として独立するが、間もなく宣教医として海外での布教の道を考え始める。当時のアメリカの若者の間では、外国伝道の機運が高まっていたのである。

カーティスは、同じく海外で活動する夢を抱くクララと知り合い、意気投合して結婚した。1840年、カーティス25才、クララが22才の時である。二人は結婚すると早速プロテスタントの一派である長老教会に外国伝道を申し込んだ。

1841年ヘッバーン夫妻の最初の宣教の地はイギリスの植民地であるシンガポールだった。2年間、華僑への教育と普及を行い、中国語を学んでいく。その後、厦門(中国)での医療伝道を開始するが、長男が死亡してしまう。クララの健康もすぐれず、シンガポールへ来てから4年半で、夫婦は泣く泣く帰国の途に就いた。

 

ニューヨークへ戻ったカーティスは、そこで小さな診療所を開設する。中国での経験が生かされ、眼病医としての評価が高まり、大病院へと発展していく。しかし、帰国後に生まれた3人の子供をしょう紅熱やコレラで相次いで失ってしまう。名医と言われながら、わが子を救うことが出来なかった。このことが、押し込めていた宣教への夢を再び強く意識し始めたきっかけの一つであった。ちょうどこのころ、「ペリー提督日本遠征記」も公刊されていたから、日本での伝道へと夫婦の背中を押したのではないか。

こうして、冒頭で述べたように、夫婦を載せた船は安政6(1859)年9月22日、横浜上陸を果たすのであった。

 

夫婦の住居となったのは、神奈川宿に近い成仏寺。領事から「この国はまだ禁教下にあり、キリスト教の布教は厳禁」と釘をさされていた。

成仏寺に集う宣教師たちは本来の目的である布教活動が行えず、宣教医であるカーティスは医療活動によって、一歩一歩地域になじんでいく。武士や外国人だけでなく日本の使用人たちも治療に訪れるようになった。そして、文久元(1861)年、成仏寺に近い宋興寺に念願の施療所を開設する。「ヘッバーン」というのが、日本人には「ヘボン」と聞こえることからいつの間にか「ヘボン先生」と呼ばれるようになった。

医師としてのヘボンの評判は早々と知れ渡り、多くの人が施療所を訪れた。江戸からも患者も多く、その数は毎日20人以上となり、手術し、入院患者まで引き受けている。肺結核、天然痘に加え、トラホームや結膜炎、白内障などの眼病が特に多かったという。ヘボンから先進の医学を学びたい若者たちも押しかけて来る。文久2(1862)年8月の生麦事件の英国人負傷者の治療に当たったのもヘボンである。

 

ところで、宣教師としての重要な課題は現地の言葉を使えるようになることだ。そのためには、日本語と英語の橋渡しをする辞書が必要だった。この頃、領事館を通じ横浜奉行所から、ヘボンは幕府の委託生9名の教育係を引き受ける。このなかには大村益次郎や原田一道がいた。

そこで、ヘボンは、日本語教師や自らの教え子たちの手助けを受けながら、辞書の編纂を進めていく。こうして世界初の和英・英和辞書「和英語林集成」が誕生した。執筆から7年余り、印刷には上海に出向いている。なお、この辞書の特徴は日本語のローマ字表記を加えたことだが、以後、これを「ヘボン式ローマ字」と呼ぶことになった。併せて、聖書の翻訳事業も成し遂げられた。

ヘボンは、「和英語林修正」という辞書の編さんに10年、そして聖書の翻訳にも10年の歳月をかけて成し遂げた。そして「ヘボン塾」で英語やキリスト教を日本の有意な著者たちを教育した。まさに、横浜は日本の英語教育発祥の地なのである。

 

ヘボンを中心とした人脈は、教育機関の創設にも貢献している。日本最初の女子教育機関であるフェリス女学院をはじめとした、数多くのミッション・スクールが生まれていった。ヘボン自身も明治学院の初代総長として指揮を執っている。

横浜の教育の礎はキリスト教宣教師たちのたゆまぬ信念と努力によって築かれたといっても過言ではない。横浜は日本におけるミッション・スクールの発祥の地であり、私学教育の発祥の地である。

 

ヘボン夫妻は日本滞在1833年、体調不良で帰国。その後、夫妻の教え子である高橋是清が外遊の際、見舞いに立ち寄っている。クララは88才、ヘボンは96才で永眠。日本と横浜に捧げた人生だった。

 

【出展:拙著「横浜を拓いた男たち」(有隣堂)】

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