【横浜を拓いた男たち】シリーズ第2回 政商にして易聖・高島嘉右衛門
政商にして易聖・高島嘉右衛門
松沢成文
皆さんは、高島嘉右衛門という人物をご存知だろうか?高島嘉右衛門は今に続く「高島易断」の開祖であり、数多くの占いによって明治期の政財界人に助言を与え続けた。だが、幕末から明治期にかけての横浜の歴史を振り返るとき、高島嘉右衛門が果たした役割の大きさには誰もが驚くに違いない。正に“ハマの恩人”ともいうべき人物である。
嘉右衛門が横浜のために残した功績、それはもちろん占いによるものではない。幕末明治期の横浜で、高島嘉右衛門はもっぱら事業家として大きな足跡を残す。材木商から建築・土木業、ホテル業、海運業、さらにはガス灯や灯台などのインフラ整備、学校経営、そして風俗産業にまで実に広範囲にわたる事業に挑戦している。今に残る「高島」の地名や横浜市営地下鉄「高島町駅」や、みなとみらい線「新高島駅」や「高島ふ頭」なども彼の名にちなんだものだ。
高島嘉右衛門は、天保3(1832)年に江戸は京橋に産声を上げる。4才を過ぎるまで歩みもままならなかったようだが、5才からは寺子屋にも通い始めて、類まれな才能を早くも発揮させていく。抜群の理解力と記憶力で上級に当たる経書(儒教の経典、四書五経のこと)の素読も3回読めばマスターした。
成長してからは父・嘉兵衛とともに現場に出るなど、材木商兼普請請負業の暖簾を受け継ぐための修業に励んだ。16歳の時には、膨大に膨らんだ南部藩への貸付に対する債務免除の代わりに提示された境沢(現・岩手県岩泉町とも)鉱山開発のため、父と同地に赴く。ところが、豊富な経験と技術を要する鉱山開発が素人の手に負えるはずがなく、自転車操業のあげく7年で撤退。しかし、過酷な環境の中での経験は、ひ弱だった少年を心身ともにたくましくし、のちに横浜で様々な事業に采配を振るう強力なリーダーシップを育んだ。
安政5(1858)年、出入り商人として付き合いの深かった鍋島藩家老から、「明年開港する横浜で、肥前特産の伊万里焼を独占販売したい。ついては、その方に藩直営の販売店を開設させたい」との話があった。こうして、嘉右衛門は運命に導かれるように横浜に足を踏み入れていく。
当時、横浜に店を連ねた70軒余りの商店には、三井のような大型店も含まれていたが、その大部分は江戸とその周辺から押し寄せた新興商人たちである。生糸をはじめとする輸出向け商品を扱い、進取の気概と一攫千金の夢を抱いた彼らは、嘉右衛門と同じくアドベンチャラー(冒険家)といえた。
こうして横浜は開港後ほどなく、内外の住民が往来する賑わいを見せ始める。かつての木材仕入れにならい、薄利多売を狙った嘉右衛門の肥前屋は連日の大繁盛となる。ところが“好事魔多し”の例えどおり、嘉右衛門は危険な賭けに打って出てしまう。それは小判と洋銀のヤミ取引であった。商人である以上、利益を求めるのは当然ながら、当時の慣習に外れた横紙張りのところがあった。この件で、嘉右衛門は“地獄”とも呼ばれた小伝馬町牢屋敷に繋がれてしまうのである。
足掛け6年の刑期を終え、牢を出た嘉右衛門は江戸払いの身ということもあり、因縁の地・横浜へ戻って捲土重来を期すことになる。
材木の扱いや普請の請負は嘉右衛門にとっては手慣れた仕事であるが、降ってわいたような異人館の建築を見事にやり遂げる。これが大きな転機となった。以降、天才的通訳少年を得、敏腕の英国公使・パークスと交渉しての英国公使館建築をはじめ、外国人居留地建築ラッシュに乗って、異人館建設を独壇場として、事業を展開していく。
同じころ、灯台の設置も請け負ったり、日本初の本格ホテル「高島屋」を現在の馬車道十番館付近に開設している。この「高島屋」は政府要人の愛用するところとなったが、嘉右衛門はここで伊藤博文や大隈重信と交誼を結ぶこととなる。
新橋-横浜間の鉄道敷設は、維新政府の若獅子と嘉右衛門の思惑が一致して急展開に進捗した。鉄道敷設工事の最大の難所であった、神奈川の青木町から横浜の石橋に至る深い入り江の埋め立て工事は、入札により嘉右衛門が請け負い、見事に成し遂げた。こうして横浜発展の礎が嘉右衛門によって拓かれたのである。
さらに嘉右衛門は教育事業にも乗り出し、「高島学校」を設立している。当時の生徒からは後の首相・寺内正毅やフランス公使となる本野一郎、植物学の宮部金吾、そして日本美術界の重鎮となる岡倉天心らがおり、その足跡は小さくない。
大江橋から馬車道に日本で初めてガス灯が点灯されたのも嘉右衛門の功績である。横浜の人はその明るさに目を見張り、文明開化を実感したことだろう。
高島嘉右衛門は、高島台の自宅で静かに余生を過ごし、大正3(1914)年、横浜の町を眺めながら昇天した。享年83才。まさに「ハマの恩人」の破天荒な生涯であった。
【出展:拙著「横浜を拓いた男たち」(有隣堂)】