【二宮尊徳の成功哲学】シリーズ第6回 企業は社会の公器であるーー松下幸之助
企業は社会の公器であるーー松下幸之助
松沢成文
松下電器産業(現・パナソニック)の創始者である松下幸之助は、零細企業を世界一の家電メーカーに育て上げた手腕から「経営の神様」として知られているが、同時に「昭和の二宮尊徳」ともいわれた人物である。今回は、松下政経塾での私の恩師でもある松下幸之助と二宮尊徳の交わりについて述べてみたい。
松下は、明治27年(1894)和歌山県海草郡和佐村(現・和歌山市禰宜)に生まれ、小学校を4年で中退して大阪に丁稚奉公に出される。15才から7年間、大阪電燈(現・関西電力)に勤めたあと、後に三洋電機を創設する義弟・井植歳男と一緒に「電球ソケット」の製造を始めた。
大正7年(1918)、松下電気器具製作所を創業し、改良アタッチメントプラグ、二灯用差し込みプラグ、二股電球ソケット、アイロン、ラジオなどで次々と大ヒットを飛ばして経営を軌道に乗せていく。ところが、戦時中に下命で軍需品の生産に協力したことから、戦後直ちにGHQによって制限会社等に指定され、公職追放処分を受ける。
GHQの制限が解除されてからは松下電器の再建に注力、高度経済成長に乗じて事業を拡大し、世界でもトップクラスの電気メーカーに育てあげた。また「水道哲学」や「企業は社会の公器」など独自の経営哲学を生み出し、日本式経営の代表格として世界から注目を集めたのである。
松下の経営哲学は、様々な面で報徳思想の影響を受けている。
『二宮翁夜話』(福住正兄著)の中にある、「江戸へ出てきた二人の田舎者が水売りを見て、一人は江戸では水すら買わねばならぬと驚いて故郷に帰ってしまい、もう一人は江戸では水を売っても商売になると喜んで江戸に残った」という話を例に引いて、松下はこう語っている。
「一杯の水を売っているという事実は一つですが、その見方はいろいろあり、悲観的に見ますと、心がしぼみ絶望へと通じてしまいます。しかし、楽観的に見るなら、心が躍動し、様々な知恵や才覚がわいてくる、ということを尊徳翁はいいたかったのでしょう。ぼくもその通りだと思います。大阪に奉公に出てきてから今日まで、意識的にも無意識的にも、水売りの姿を見て江戸に残った若者のように、ものごとを積極的に明るく見てきました」
さらに松下は、こう述べている。
「道義や道徳というのは、人間の尊厳とその正しい生き方を教えるものです。企業にしても同様です。企業は公のものです。世の中に役立ち奉仕してこそその使命を果たしたといえます。だから企業の正しいあり方というのは、“利益のために手段を選ばぬ”というのではなく、尊徳翁が説かれている『利他両全』の思想が根底になくてはいけないということです」
「企業なり企業の経営者というものは、単に資本をもち経営力をもっているだけではいけません。同時に忘れてならないのは、社会性というか社会正義ということを考え、これに照らしつつ企業の経営を進めていくということです。さもないと、往々にして資本の横暴というようなことが起こり、他の企業、業界、ひいては社会一般の需要家にまで、重大な悪影響を及ぼすおそれがある」
松下は、「ただ稼げばよい、働けばよい」と考えるのは間違いだと説いている。企業活動は、営利と社会正義の調和に配慮し、国家社会の発展を図り、もって社会生活の改善と向上を目指すという経営理念をもたなければならない。まさに、尊徳のいう道徳経済一元論を、言葉を替えて言い表しているのではないだろうか。
さらに二人は、商売道についても同じような解説をしているのが面白い。尊徳は「商売は売って喜び買って喜ぶようにすべきだ。売って喜び買って喜ばないのは道ではない。買って喜び売って喜ばないのも同じだ。売って喜び買って喜ぶを法則とすべきである」と言い、一方松下は、「商売というものは売る方も買う方も双方が喜び、双方が適正な利益を交換するという形でやらなければ長続きしない」と言っている。経済活動によって共存共栄を目指すことが商売道であるという考え方だ。
この積極思考、つまり、いかなる困難に出合おうとも前向きに挑戦するという松下の姿勢は尊徳譲りのものであろう。
松下の実業家としての特筆すべき功績は、「PHP研究所」と「松下政経塾」の創設であろう。
昭和21(1946)年、戦後復興にかける意気込みを示すかのように、松下は「繁栄による平和と幸福」をスローガンに「PHP研究所」を設立。物質的繁栄と同じくらい精神的繁栄に重きを置き、道徳や社会正義の重要性を説いた倫理教育と啓蒙活動の展開したのである。終戦直後の混乱期にこうした活動を思い立つ松下の先見性と器の大きさには驚くほかない。
そして昭和54(1979)年には「政治を正さなければ日本は良くならない」をスローガンに、政治家や経営者など日本のリーダーを養成するため「松下政経塾」を私財70億円を投じて創設するのである。それまで松下は、日本の政治の荒廃は国家経営の失敗であるとし、「無税国家論」や「新国土創成論」などを発表し、警笛を鳴らしてきた。しかし、いっこうに改まらない政治体制に業を煮やし、周囲の反対を押し切っての決断であった。こうして政治改革を志した松下は、大勢の政治家を育て、平成元(1989)年、94歳でこの世を去った。
こうした松下独自の活動も尊徳の「推譲」の精神に相通じるものと思えてならない。小田原市南町の「報徳博物館」の建設費賛助委員会において、関西財界側では松下幸之助が中心的役割を果たしたことを付言しておきたい(関東財界側は土光敏夫)。
【出展:拙著『教養として知っておきたい二宮尊徳』(PHP新書)】